kei_madou’s blog

双極性障害の闘病日記です

崩壊の夏

完全に私の躁転は終了していた。少なくともあの楽しい幸せな気分は失われ、常に不安が付き纏っていた。

だが、どんなに不安でも気が狂いそうでも社会人である限り会社に行き仕事をせねばならない。私は常々考える。子どもは生きてるだけで基本価値がある。失敗も許される。だが、大人はどうだろう。大人は働かなくてはならない。終わるまで働かなくてはならず、失敗も原則許されない。完璧に間違いなく仕事を遂行してこそはじめて価値が見出される。そう思ってやまない。もちろん、そんなことは無いと、それだけでは人間の価値は決められないと他の人間は医者は言う。それでも私の頭はそう思考してしまうのだ。

私は会社に行くことを恐れた。しかしながら、何をしてでも会社に行かなければならないと思った。まずはこのストレスを、不安を、怒りを払拭しなければならない。そう思った私は早朝部屋を物色した。机の引き出しの中にひとつの刃物があった。私はそれを自分の体に向けて放った。つまり切ったのである。当然血が出る。私はそれを見てゲラゲラ笑った。そしてそのままTシャツを着て出掛けた。もちろん会社だ。自分を切ったことで一時的に不安がおさまった気がした。それはおそらく脳内物質の依存に過ぎない。だがそんなことはどうでも良かった。

会社のトイレで私ははじめて己の姿を見た。生気はなく、白いTシャツは血で茶色く汚れていた。おっとさすがにまずいぞと洗面所で汚れを落とした。周りは何も言わなかった。気づかなかったのか、気づかないふりをしていたのか。分からない。

だが、私は味を占めてしまったのであった。傷があれば心が落ち着くと。理由は分からない。だが、それだけは当時の自分にとって真実だった。物に当たったり、他人を傷つけることはできなかった。憎らしいのは常に自分であった。

この年の夏、こうして私はほぼ毎日のように傷を作った。全ては会社に行くために。だが、すべては慣れる。エスカレートしていくものだ。そして、私の思考は段々無自覚に狂気じみていくのであった。

暗雲

自分の幸福といわゆるハイが終わっていくことは何となく理解していた。

それは単純に躁転の時期が終わったのか、それとも気分安定薬の効果だったがわからない。だが、私は徐々に幸福感ではなく不安感に襲われ始めていた。会社の人間が恐ろしい。誰もが自分の粗探しをしている気がする。私は自身の会社の人間の全てが恐ろしく感じるようになった。

最早、ブランコで楽しんでいた時期は過ぎていた。無邪気に笑うこともなく、会社に行くことは苦痛であった。完全に鬱状態に変化していた。

そんな状態にあっても、仕事をしなければならないという意識は継続していた。どんな犠牲を払っても仕事をしなければならない。どんな恐れがあっても会社に行かなければならない。例えどんなことをしてもこの不安を払拭しなければならない。この強迫観念が自分を追い込んでいく。

季節はやがて夏になろうとしていた。この夏が私をより狂わせた。私は徐々に取り返しがつかないことをし始めていたのだ。

軽躁の日々3

転職する事に決まった。

退職届を出すと、元会社の上層部は慌てて私を引き止めてくれた。前の部署に戻すから考え直してくれないか?と1時間半くらい説得されたものの、軽躁で前しか見てない私にはこれから先のステージでの未来しか興味は無かった。

多くの人が退職を惜しんでくれた。新卒で入った私は割とかわいがられていた。惜しいことをしたと思う。だが、退職を惜しんでくれる人がいる自分の次の未来はきっと明るいと当時私は考えていた。

私は何も考えることなく、あっさりと退職し、そしてあの忌まわしい場所へと向かったのだった。

 

先に言っておくが、転職先の会社はブラックではない。決して悪い人がいるわけでもなく、上長や先輩は親切である。なのにどうして、この場所に来てからあんなことが起こったのか。未だに何故と言う疑問符は頭から離れない。答えの出ない問いである。それでも最初は順調だった。なぜならあの頃はまだ軽躁の魔法が解けていなかったからである。

 

新しい会社は、都内の西側に位置する。23区外である。前の会社は都心のまさに一等地だった。ラッシュから解放された通勤は新鮮であった。

会社が変われば人も変わる。会社ごとに社風というものがある。はじめての転職でそれを思い知った。どことなくよそよそしい人、暗い人、挨拶してくれない人、そのくせに何故かまるで学校のような…形成されたグループ感がある。正直にいうと、困惑があった。だが、きっとそういうものだ。そういうものなんだろう。

私は引き抜いてくれた先輩の元で仕事を始めた。当時の私は新しいことへの吸収願望が強かった。仕事はとりあえず真面目にやった。

昼休みになると、近所の公園に1人行き、ブランコを思い切り漕いだ。全力でブランコを漕ぐ大人にベンチに座るオジサンも困惑気味だったが気にしなかった。あとは、何故か通勤中に買ったシャボン玉を吹いたりしていた。これにはさすがの先輩も困惑した。

 

それはそうと、仕事をしながらも通院は続けていた。

当時の担当医はコウノドリをやっていたときの坂口健太郎(コウノドリの主演は実際は綾野剛である)みたいな若い男だった。

私はそこで最近自分が散財気味であると口にした。それがおかしいというくらいの理性は残っていたのである。ただし、朝方歌って踊っていることは疑問視していなかったので、喋らなかった。

とはいえ、担当医は私の異常に気づいたようであった。彼は私が双極性障害ではないかと言った。私はレクサプロのせいではないか?と言った。レクサプロを飲んで以降こうなのだ。原因は抗うつ剤の副作用かもしれないと思ったのだ。だが、医者は言った。そもそも双極性障害の素質がある人間以外、抗うつ剤躁転は基本しないものだと。

これには返す言葉がなかった。担当医は気分安定薬を追加した。最初に出されたのは何だっただろうか…。ラミクタールかリーマスか。ラミクタールがとにかく不味いことしか覚えていない。

 

私は双極性障害という、わけのわからない病名をつけられ、少し落ち込んで病院を後にした。

なんだか楽しい気持ちが少し薄れていくようだった。いや、少し前から予兆はあったのだ。魔法が切れかかるような、心に暗雲がたちこめていくような。

双極性障害Ⅱ型の躁は短いと言う。

私の夢も終わりに近づいていた。

 

軽躁の日々2

軽躁の人間がやることのひとつ、散財である。

双極性障害について調べても直ぐに出てくる。とにかく金遣いが荒いのである。

当然のごとく私もそうだった。まず、私は部屋の模様替えにハマった。当時の私の部屋は学生時代のままの慎ましいものだった。何年も使ったデスク、椅子。ベッド以外すべて総とっかえした。

家具屋に行き、まずは木のしっかりした作りの大きなデスクを購入。椅子はおしゃれな革張り。ついでに木目の本棚も購入。さらにはラグも買って、おしゃれな部屋の出来上がりである。

いい出来だ!あとはこれに小物が欲しいな。そう思い私は飾るものを求めた。そうだ!フィギュアだ!!アニメとかじゃない!デザイナーズフィギュアが欲しい!

言っておくが、元々私にフィギュア収集の趣味は全く無かった。なのに当然欲しくなってしまったのである。私はネットで色々検索した。そこで出会ったのがdevil toysとblack13parkである。devil toysはまだ良い。だが、black13parkは9万くらいするのである。通常なら買わないが、当時の私はカッケー!!買う!と即決で買ったのだ。Oh…。

 

不思議だが、何故だか私の散財は玩具に固執していた。

フィギュアのほかにハマったのはガチャガチャである。もちろん、ガチャガチャをする習慣など私には無かった。だが、当時の私はガチャガチャ中毒であった。気に入ったガチャガチャがあればとにかく回しまくり、特にパンダの穴のガチャガチャにハマっていた。しかしながら、あのメーカーの商品は安くてユニークであり、今でも魅力的である。私のお気に入りはマウンテンタートルズだ。あれは非常に良く出来ていた。いつか再販されたとしたら、回して損はないぞと他人には言いたい。

他にも全く興味がなかったはずのトミカでテンション爆上がりしたり、作ったこともないゾイドを買って早朝組み立てたり、ヨドバシで500円でワゴン売りされてたなぞのモンスターフィギュア(腕だけ稼働する)を買って飾ったりしていた。

 

後は、パワーストーン信仰が激しかった。

私は転職するにあたりお守りを求めて都心の裏路地にあるパワーストーン店を訪れた。

そこで私は浄化用の水晶クラスターを購入し、またオリジナルのブレスレットを作った。ブレスレットは自分のこうありたいという願望を詰め込んで、ひとつずつ石を選んだ。これはこれで楽しい作業だった。やたらとダークな色合いに中途半端なカラフルが入ったブレスレットが完成した。完全オリジナルである。私はハッピーな気分でお会計した。お値段は全くハッピーではなかった。

それ以降、私は毎日ブレスレットをつけ、夜になると真面目に水晶クラスターの上に置いて浄化することを日課とした。

 

ブレスレットはいまでも付けたりつかなかったりする。見つめていると、どの石にどの願いが込められているのか、自分はどうなりたかったのかのルーツが込められている気がする。大事な軌跡でもある。

ただし、決して石は私を救っても守ってもくれなかった。もし石に力があったなら、この先ああはならなかっただろう。

軽躁の日々1

あの頃は夢のようだった。

朝はいつも早朝に目覚めた。当時の私の日課は起きると共にクライスラーの自作自演集のCDをかけ、あの軽快でハッピーな音楽を聴きながら、ひたすらに部屋を片付けたり、切花の手入れをすることだった。クラシックを聴きながら生花用のハサミで丁寧に古い茎を切り、花瓶に水をやり生ける。実に人間らしい暮らしをしている気がした。

家族が起きだすとあほみたいに掃除をしまくりながらとにかく喋りまくった。当然家族は困惑していたが、直接的にお前変とかいうわけではなかった。やんわりとお喋りだねなどと言われるくらいだったため、悲しいかな軽躁の私には真意が届くはずは無かった。

 

友人にSという人間がいる。

Sとは幼稚園児からの付き合いである。幼馴染と言っていい。Sとは小学生中学校と高校で離れるまで一緒だった。小学生の馬鹿餓鬼だった頃は悪友のようでもあり、コンビに近かった。社会人となった今も一応交流は続いている。Sとは互いの誕生日と年によっては気まぐれに何回か共に過ごした。

そんなSから夜の散歩に行こうとの誘いがあった。曰く、コロナで運動不足だから近所の河川を散歩する事にハマっているのだと。私はすぐにOKした。

 

私たちの地元には、とある一級河川が流れている。この川は地元で育った私たちには馴染み深い場所だった。川沿いをずっと歩くと、大きな公園に着く。片道1時間半くらいだろうか。小学生の頃は毎年遠足でまさにこの道を歩かされ、到着地点の公園で遊んだものだ。

夕方に出発し、Sとともに道を歩いた。

私はこの頃、知り合いのツテで引き抜き転職の交渉中であった。給料上がるよという先輩の口車にまんまと乗せられ、頭も真面目に働いていなかったから、そりゃイイっすね!とやる気に満ち満ちていた。その話をSにするとSは素直に良かったじゃないと言った。Sは私が営業部に移動して苦悩していたことを知っていたから、前と同じ仕事ができる転職に素直に安心してくれたのだろう。

取り止めもない話をしながら、我々はやがて思い出の公園へ辿り着いた。着いた頃にはすっかり日は沈み夜の帳が下りていた。

アスレチックの方に行こうよ!

私はそう言った…だろうか。Sは頷いてくれた。私たちは歩いてアスレチックがある方へ向かった。当然誰もいない。子供に帰った気がして私ははしゃいだ。Sも一緒に遊んでくれたと思う。確かそのはずだ。

私は気分が良くなって、Sにペラペラと自分のことを話した。心療内科に行ったこと、レクサプロという薬を飲んだら、すごく気持ちが楽になったこと、過去の嫌なことも忘れられたこと。

自分は本当の自分を取り戻した。自分はいま幸福だ。

私は笑ってそう言った。Sは良かったなと笑っていた。Sと2人誰もいない夜の公園を歩くのは心地良かった。欲しいもの、すべてがここにある気さえした。

 

帰り道、Sは私にまた散歩に行こうと言った。

私はもちろんと答え、別れ道でSに手を振った。私は次の夜の散歩を楽しみに帰路に着いた。

そしてこの約束は、それ以降果たされることはなかった。

すべての始まり

まだ私が双極性障害と診断されていなかった頃、私は今とは異なる会社に勤めていた。新卒で入社した会社である。当時の私は順調に評価されて仕事をしていた。だが、会社の配置転換が私の人生を大きく左右した。曰く、上層部は私を将来の幹部候補にするために様々な場所を経験させたく、営業部への移動を命じた。だが、タイミングが悪かった。当時の場所でスキルアップを図ってやる気があった矢先のことだ。私は内心どうしても受け入れることができなかった。わかりましたと答えても、あれよあれよとストレスは自分を蝕み、私は遂に心療内科の門を叩いた。

診察前のカウンセリング室でヒアリングを受ける。

私はそこで無様にもボロボロに泣いた。臨床心理士は困った顔をして、普通ならばあなたの症状なら今は休職すべきだと言った。だが、私は愚かにも薬でもなんでもいいからとにかく仕事をできるようにしてくれ。パフォーマンスを落としたくないと言って断固拒否したのだ。

ああ、あの時大人しく言うことを聞いていればこんなことにはならなかったのかもしれない。時すでに遅しだが。

 

私は鬱症状のため、レクサプロを処方された。

このレクサプロが分岐点だった。

果たして救いか、諸悪の根源か、今でも分からない。

 

次の日、私は随分と爽快に目覚めた。

昨日までの鬱が夢のようだった。私は朝から家族を叩き起こし、ぺらぺらとひたすらに喋り続けた。完全な多弁である。言葉がすらすらでて会話はひっきりなしだった。元気よく掃除機をかけ、その日は歯医者があったから、午後に出かけた。

自転車に乗りながら、ふと自分は神ではないか?と思った。私は歯医者が苦手だが、自分は神だから歯医者くらいどうってことないですねと思いながら治療を受けていた。

とにかくこれが軽躁の始まりだった。

私はこれからしばらく軽躁という一時の夢を見る事になった。のちに終わりがくるとはこの時は思っても見なかった。

双極性障害の自己紹介

思えば子供の頃から自己紹介が苦手だった。

小学生、中学生、高校生、一度でもまともな自己紹介が出来たことなどあっただろうか。

 

私は双極性障害Ⅱ型である。

診断されたのは2021年のことだった。この年は散々な目にあった。多くの間違いを犯し、取り返しの付かないことをした。長らく自分はそれを受け入れられなかったが、つい先日寛解状態から突然再発悪化したことで、自分が死ぬこともある可能性も感じた。その時、一度だって自分は自分のことを誰かに伝えたことがあっただろうかと思った。自己表現は苦手だ。TwitterInstagramも出来ない人間である。でももし仮に頭がおかしくなって死んでしまうくらいなら、一度くらい自分をひけらかしたっていいじゃないかと思ったのだ。そんな訳で薬を詰め込んだ頭で突発的にこんなことを書いている。

 

最近自分がよく分からなくなってきたので、冒頭に書いた通り、改めて自己紹介をしてみる。

私は普通の社会人である。別にエリートでもなんでもない。冴えない中小企業に勤めている。

学生の頃の特技は暗記。好きなことはショッピング、部屋の模様替え、ガチャガチャ、デザイナーズフィギュア、漫画、アニメ、映画鑑賞。好きな映画はホラー系、マーダーズ(初期)、ヴィジット、ミッドサマーなど。

漫画は薄花少女、コーポ・ア・コーポ、忍者と極道、チェンソーマン、ダブルなど。

たまに読む雑誌はNewton。好きな小説家は矢部嵩福永武彦

いま思いついたのはそんな感じだ。もっと他にもあればいいんだけれど。

 

これまで何かが続いたことはない。

今回が最終回かもしれないけれど、何かを書くということに意味があると思いたい。自分を公開するのは弱さである気がする。後悔する気もする。

ただ、やってみる事に意味があればいいと願う。せめて頭の体操くらいには。